シュヴァルグランが現役を引退してしばらく経った頃のこと。
シュヴァルの元トレーナーになった俺は1人で海へ行き釣り糸を垂らしていた。
◇
今日は何故かフグばかり獲れた。それも例外なく体をまんまるに膨らませて威嚇してくる個体ばかり。今この場で掻っ捌きたい衝動に駆られたが、あいにく俺はフグ調理師免許を持っていない。
素人はフグに手を出しちゃいけない。そういえば大分昔にフグを捌いてシュヴァルに怒られたっけ。
今回も、釣れたフグは全て海にリリースした。
◇
しばらく釣り糸を眺めてる時間を過ごしていると、後ろから足音が聞こえてきた。流し目に見てみると、足音の正体はシュヴァルだった。どうやら彼女もこの港で釣りをしに来たらしい。
そしておそらく、彼女は俺の存在に気がついていない……
(だいたい俺は元々、シュヴァルの様な子好きじゃないんだよなぁ)
俺は背筋を伸ばした。シュヴァルは持参してきたんであろう釣り道具を物色している。
(いやもう、はっきり言っちゃえば嫌いだし。もう、大っ嫌い。そもそもシュヴァルとは同棲しちゃったりして結婚も視野に入ってきてるぐらいの仲だし。今更見かけたからって毎回話しかけるような関係じゃないんだよ)
俺は肩の横を伸ばすストレッチをした。シュヴァルはルアーを見ている。
(でもまぁ、そうだな。元トレーナーとして教え子相手にそんな態度を取るのは器がちっちゃいか)
次に俺は前ももストレッチを行った。シュヴァルは背伸びをしている。
(いやもうほんと、全然会えて嬉しくなんかないけど。せめて会釈を返しとくのが最低限の礼儀だろう。フッ、俺も甘い)
最後に内腿を伸ばす運動を終えて準備は完了。戦闘モードに入る。
文字通り無防備な彼女の背後を取って思わず鼻息が荒くなった。狙いはシュヴァルの腰。俺は静かにクラウチングスタートの構えを取り……
小鳥達の囀りよりも速く走り出した。無我夢中に走った。もうこれで終わっていい、アキレス腱のリミッターを解除して全身全霊、シュヴァルへとっしんした。
「シュヴァルゥゥゥゥゥゥ!!!!!」
「なっ……えっ!?」
背後から腰に手を回しそのまま持ち上げた後、真上へたかいたかーいした。数秒の浮遊の最中で一回転したシュヴァルが俺の真上に落ちてくる。俺は死ぬ気で空中キャッチした。
落としたらこの場で自害するつもりで抱きしめたシュヴァルは涙を浮かべながら瞳の中を渦巻にしていた。愛くるしいなと思い、衝動的にほっぺにキスをした。
「シュヴァルゥ〜会いたかったぞぉ〜このやろ〜う!」
瞬間、左腕がシュヴァルに噛みつかれた。それもものすごい力で。
「痛ってぇ!? いきなり何すんだ! ご乱心か?」
さらにシュヴァルは俺の手を強引に振り解いてきた。予想外の行動に内心呆気に取られながらも、俺は軽くバックステップ踏んでシュヴァルから距離を取り、考える。
いや、ご乱心というかどちらかと言えば理性を失ってる……? 彼女を冷静に観察すると、呆然としてただ突っ立っているように見えた。大量の涙を流しながら。これは……やらかしてしまったかもしれない。
そう気付いたならやることは一つである。俺は光の速さで額を割るレベルの土下座を決めた。
「ごめんシュヴァル。悪気はなかったんだ……」
「……トレーナーさんの声……? はっ! 僕は今まで何を……」
よし、戒めを精算するため切腹しよう。それで罪が許されるかは分からないけど、俺がくたばることでシュヴァルが報われるなら喜んで腹を切ろう。
「僕は確か釣りをするために海に……って、トレーナーさん!? いつからここに……あと左腕の奇妙な傷……だ、誰にやられたんですか……?」
あばよ現世。最初で最期の担当したウマ娘がシュヴァルで心の底から感謝するよ。決意は固めた。この短刀で腹を掻っ捌く。
◇トレーナーの懐から取り出した短刀を見てシュヴァルは慄いた。トレーナーの並々ならぬ決意、シュヴァルグランは魅せられていた。イマイチ状況を理解できてないけれど、やっぱりトレーナーさんはかっこいいなぁと。
◇シュヴァル視点
僕のトレーナーさんが1人で釣りに行っちゃったから僕も釣りに向かうことにした今日の朝方。
そしていつもの港で釣り道具を整理していた。そこら辺までは覚えているのだけど。その前後で何故か記憶が飛んでしまっている。
そして気がついたらトレーナーさんが目の前で土下座していた。頭が混乱した。訳がわからないとも思った。この人は先に外出してて、偶然じゃなきゃ会わないと思っていたからだ。しかも左腕には誰かに噛まれたような傷もある。
トレーナーさんの身に何が起きたのだろうか? とりあえず何も分からない現状、僕は何も出来ない。
だから進展があるまで静観しとこうかなと考えていた。そんな猶予はなかった。トレーナーさんは土下座を解除したあと、そのままの流れで短刀を取り出し、自らの腹へ突き刺そうとしてきたのだ。
「ま、まってまってまって!?」
反射的に身体が動き間一髪、腹を突き刺す前に短刀を取り上げることができた。トレーナーさんが今やろうとしたこと、段々と時間が経っていく間に僕は嫌でも理解してきて、ゾッとして血の気が引いた。
「ト、トレーナーさん……?」
「殺してくれシュヴァル……全部俺が悪いんだよ……」
昨日までは僕やみんなが知ってるいつものトレーナーさんだったのに。目の前にいる人は僕が目を離しただけですぐに消えそうなトレーナーさん。
それを見て僕は決心した。今日、トレーナーさんの身に起こった災難の元凶を今日中に始末するんだと。そして、トレーナーさんが生きてもいいと思えるように、ずっと支えようと。